2014年8月8日金曜日

卒業

どうも江戸紫です。

大変長いことお世話になりましたが
本日で神田の家を卒業する事になりました!



思い起こせば

平将門キューピーを作ったり、



販促用ジャイアント版を作ったり、

随分と年季が入りました

それをサンタにしたり、



お雛様の道具江戸百景についてお話したり、


江戸百景『御厩河岸』の夜鷹がカオナシにしか見えない事とか



久松るす作ったり、



NHK取材用に実は新しく作り直した



あかりちゃんに癒されたり。

彼女には幸せになってもらいたい





なんというか、まー振り返ると
ゆるゆると記事を書かせて頂きました。


ご愛読いただきました皆様、
本当にありがとうございました。


そうそう、
今後、神田の家のホームページ
IMASAサイトリニューアルに伴って、そちらに統合されます。
新しいサイトを楽しみにしていてくださいね!


今後ますます発展していく神田の家、井政を
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。




2014年7月10日木曜日

大てんま町木綿店

どうも、えどむらです。

今日はこちら



 『大てんま町木綿店』

現在も同じ地名でわかりやすいですね。
幕府や大名など公の荷物運搬を担う町を伝馬町といいました。

そういった町の特性から
主に地方から取り寄せた物を扱う木綿問屋が集まる商業地としても発展します。




この二人は芸者さん。
つぶし島田の髷に揃いの着物をきています。
さっきの客はなんだかんだと話しているのでしょうか。





右から 「田端屋」、「升屋」、「嶋屋」 と木綿問屋が並んでいます。





暖簾越しに升屋の店内を覗き見できます。




屋根の上には天水桶の囲い。




さて、現在の様子は



こうなっております。




田端屋があった場所に建つ灰色のビルには伊藤忠が。



今日も江戸の面影も何も無い一枚になってしまったと、
残念に思いながら道路の反対側の工事中のビルにふと目をやると



SINCE 1653
360th アニバーサリー・・・!


と工事の囲いに書いてあり、



その隣には
同じく広重の『東都大伝馬街繁栄之図』が。



実はこちらのビル、
江戸時代に繰綿と紙の問屋さんとして始まった小津和紙さん。
1階は工事中の様ですが、
2階では今も営業されています。






『東都大伝馬街繁栄之図』を良く見ると、
ちょっと潰れて見にくいですが
左端に「田端屋」(砂時計みたいなマーク)が、
右手奥に「小津和紙」(三角マーク。中の「久」は潰れていて見えない)が
あるのがわかるかと思います。
江戸百景とは反対側からの構図で描かれているんですね。



てことは、
あの芸者さんの脇には描かれてこそいないものの
小津和紙さんがあったってことですね。


江戸が今でも残っていました。





先々週から江戸百景を毎日のように連載させて頂きましたが、
今日で一旦終了となりそうです。
えどむらも楽しい3週間を過ごさせて頂きました。

ご覧頂きありがとうございました。



2014年7月9日水曜日

日本橋通一丁目略図

どうもえどむらです。
さて今日は名所江戸百景に戻りましょう。




今日はこちら、『日本橋通一丁目略図』
現在の日本橋交差点から日本橋を望む景色です。

相当日差しが強いのでしょうか、皆日傘をさしています。
この時代は男性も笠をかぶれましたから
現代のサラリーマンの夏より快適でしょうね。






真ん中に御幣を付けた二重傘をさしているのは
かっぽれの大道芸人たち。

その後ろを歩く、笠をかぶり三味線を持った女性は
義太夫を語る女太夫と言われています。
構図からして彼女がこの絵の主役だとも言えなくないように感じます。






多くの店が軒を連ていますが
「東橋庵」と書かれたこちらのお店はお蕎麦屋さん。




蕎麦屋の出前が通る傍らには
真桑瓜(メロンの一種)売りが。
真桑瓜は日本では早くも縄文時代から食べられてきたようで、
美濃国真桑村(現在の岐阜県本巣市)でよく作られていたため、
この名が付いたそうです。




うしろのお店は
越後屋(のちの三越)と同じくらい繁盛した呉服店の白木屋。
白木屋大火は学校で習った気がします。


この白木屋、現在ハワイのアラモアナにあります。
shirokiyaホームページ
えどむらは行ったことがありませんが、
ワイハに詳しい知人によると日本人のお客さんが多いそうです。




現在の同地点からの写真がこちら。
白木屋の代わりにどどーんとそびえるビルは





三井不動産のコレド日本橋です。


2014年7月8日火曜日

神田橋御門

今日は浮世絵をお休みして
「大手町川端緑道」のお話から始めたいと思います。



神田の家が建っていた鎌倉河岸の対岸に
今年の4月にオープンした「大手町川端緑道」。
お昼時には、川辺のベンチでランチをとるOLさんの姿も見られます。





 そこに建っている看板に





神田橋門石垣跡とあります。



その場所まで行ってみると
こんな看板が。




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多くの堀に囲まれた江戸城には、
「三十六見附」と呼ばれるように、
道路と堀の交差する場所には敵の進入を防ぐための城門がありました。
神田橋門もそのひとつで、外堀(現在の日本橋川)に架かる外郭門で、
芝崎口・神田口・大炊殿橋とも呼ばれ、
寛永6年(1629)に下野真岡藩主稲葉正勝によって構築されました。
特にこの門は、将軍が寛永寺や東照宮に行くための御成道に位置するために、
その警備は重要でした。
明治5年(1872)に門は取り壊されましたが、
地中には城門石垣の一部が残されており、
ここに並べた石は工事中に出土した石垣を城門想定位置に配置したものです。
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と書かれています。






おそらくこれが工事中に出土した石。

大量に出土すればもっと見栄えがしたのでしょうが、
それでもかつての様子を思い起こすことが出来ますね。





明和江戸図にも神田橋御門が描かれています。
上記の説明の通り神田橋御門は要所だった為、
明治の頃まで門前には何もなかったそうです。

その右手、「遠(?)藤下ツケ」と書いてある場所に
後に神田の家が建つことになります。





かつての神田橋の風情は




現在はありません。

2014年7月7日月曜日

市中繁栄七夕祭

どうも、今日は七夕ですが
生憎の雨、今年も織姫と彦星は会えないようです。


別の星の話なんだから地球の一地点に雲がかかっていようがいまいが関係ないんじゃないか、
とも思いますが。


七夕伝説をおさらいしましょう。
織姫と彦星は帝が持ってきた見合い相手で
会ってみたら非常に相性が良く
結婚したら仕事もせずに遊び呆ける様になった事に激怒した帝が
罰として年に一度しか会わせないようにした、という話だったと思いますが。


見合いの話を持ってきた帝の責任はどうなるんでしょうかね。
帝が仲人じゃ断れないですしね。




さて今日はこちら



七夕の様子を描いた作品 『市中繁栄七夕祭』 (詳しくは過去のブログへ)

名所江戸百景の絵師、歌川広重の自宅の屋根の上から描いたものではないかと言われています。







前方に富士山と、その右手に江戸城が。








東京駅八重洲口から徒歩5~10分ほどの所に
歌川広重の自宅跡があります。




ブリジストンビルの向かいのビル前に、






画広重と書いてある場所が住居だった


広重住居跡という看板が残っています。
もし本当にこの絵が広重宅からの景色で、
広重が別荘を持っていなかったら
おそらくこの辺りからの景色ということになります。







空撮は出来ませんでしたので地上から。
右手の道の奥に見える白いところが東京駅。
左手のビルの端に住居跡の看板が立っているのが見えますでしょうか。


この周辺は表通りから一歩裏路地へ入ると
小さなビルが多く、
神田や日本橋と同じ様な印象がありました。

せめて周辺で七夕飾りがあればと探したのですが
やはり見当たりませんでした。





2014年7月4日金曜日

七夕絵どうろうまつり

おはようございます、えどむらです。


今日は江戸百景めぐりをちょっとお休みして、
神田西口商店街で昨日・今日と開催中の
「第12回 神田・秋田湯沢  七夕絵どうろうまつり」
の様子をお伝えします。







本来は秋田県湯沢市で行われているお祭りですが、
かつてこのあたりに秋田・佐竹藩の上屋敷があったことから
2年に一度、神田でも開かれるようになったとの事。







商店街の端から端まで、20以上の絵どうろうが飾られています。





人が集まっているのは、


 


羽後町西馬音内地区に700年前から伝わる「西馬音内盆踊り」。
現地では8月16日から3日間にわたって
篝火のたかれた通りで披露されるそう。



文化交流はいいですね。


2014年7月3日木曜日

上野山した

はい、えどむらです。

今日は上野にやって来ました!



今日の1枚 『上野山した』 です。

上野の山の下の方ですね。
厳密に言うと、上野山したの地域とはちょっとずれているらしいのですが。





現在の様子。






近くにはパンダさんが植わってました。










浮世絵の右手には「伊勢屋 しそめし」 と看板が見えます。
紫蘇飯、さっぱりしてそうだな~。


このお店、
後に「雁鍋(がんなべ)」という有名な料理屋に替わり、
幕末から明治の結構通な人が通う人気店になったそうです。
行ってみたいな~と思っていろいろ調べたのですが
残念ながらもうなくなってしまったみたいです。





ちなみに「雁鍋(がんなべ)」 という名は
屋根が雁の形をしていたからとか。






伊勢屋の2階。
上野戦争の際に新政府軍がここに立て籠って
旧幕府軍を狙撃した事が勝利のきっかけになったとか、ならなかったとか。


ちなみに上野戦争が起きたのは146年前の今日・・・ではなく明日でした。
うーん、この記事明日にすればよかった。







この鳥居の先は五条天神。
今年の5月、湯島天神さんと一緒にお祭りがありましたね。
アメ横のすぐわきをお神輿が通っていました。







五条天神は何度か遷座を重ね、
現在は上野公園の中ではありますが別の場所にあります。




鳥居の先に、


 まず現れるのは花園稲荷神社。






その先の階段を下りたところが
五条天神です。

茅の輪の木枠がまだ残っていました。




御祭神は
大黒様、恵比寿様、菅原道真公とのことですが
医薬祖神としてお祀りされています。










余談ですが、現在の五条天神の脇には
雰囲気の良いお食事処があります。
昼食をとっていなかったので調度良い!と思ったのですが
ゼロが一つ多くて入れませんでした。






そんなすさんだ心を慰めてくれた
ヘブンアーティストのマリンバの演奏。
いつまでも平和な日本であって欲しいですね。








ところで




なんかモデル体型に見えませんか?










 昨日のする賀てふに出て来る人に比べると、






なんか違う気がするなあ。。。






上野山したに描かれる人も馬も
なんだかスリムな感じがします。



この作品、
実は2代広重によるものではないかという説があります。
なるほど、それで印象が違うんですね。