2009年7月14日火曜日

京都の首塚

京都の四条通りと綾小路通りを結ぶ、小さな路地を南に入ったところにある「新釜座町」
ここは、平安時代に平将門の首が晒された場所で、後に空也上人が供養のために道場をひらいたとされています。
空也上人は印として石を建て、それをご神体としたといわれています(村上春樹著 『平将門伝説』 より)
現在は、民家の壁に塗りこめられたように祠が残されています ↓


祠を内包している家屋の管理者が変わる、ということで、神田明神の神主さん2名と、関係者や町の方たちの数人でこのたび神事が行われました。

平安時代には朝廷にはむかったために「逆賊」と呼ばれ、江戸時代は徳川幕府により江戸の鎮守神となり、そして大政奉還の後は天皇に逆らった「国賊」として排除された平将門。
「民衆のために立ち上がった英雄」としての評価もある関東とは異なり、京都では実に長きにわたって誰もが口を閉ざし、タブーとされてきた人物だったようです。
ただ、そんな土地にあっても、その人物をまつったとされる祠が遺されているのが人心と歴史の面白さ。


戦国時代に、神田明神がこの祠をお祀りした、という記録は残っているそうです。
さすがに当時のものではないのでしょうけれど、去年この祠をあけた際には神主さんに「神田明神のこんなに古いお札は見たことがない」と言わしめたお札が入っていました。
(その古いお札は今回お宮にお渡しすることになり、現在は昨年の祭祀の際に収めた新しいお札しか入っておりません)

無事に祠の祭祀を終え、家屋の本体の方でもお祓いが行われました。(どちらが付属か、もはやわかりません)

家主不在でただ沈黙していたこの祠ですが…

将門公に失礼のないような祀り方がされることを祈っております。

さて、ご神体とされていた石はどれなのか??私たちの研究は続きます。

空也上人が京都でひらいた道場についての資料や情報お持ちの方、是非教えてください~。


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