…ここのところ、そちらにかかりきりでございました。
昨年もこちらのブログにてご紹介しましたが…
2月14日は将門公の命日。今年も浅草は日輪寺にて厳かな法要が行われました。
奉公人1となでしこも参列させて頂くことができました。
今年は五番組の頭たちによる木遣りが奉納されました。
今年は親子木遣り!
講堂での法要後も、人知れず仏事は続いていました…
そしてそして、この2月14日から、京都の四条通り沿いにある新釜座町の一角にて「将門公の首の晒された場所」を祀るお社が一般に公開されることとあいなりましたのでここでご報告させて頂きます。
このお社は京都・神田明神という名称で(しばらく前までは神田神宮というプレートが貼っていましたが)平安の昔、坂東で討たれた将門公の首級が京都に運ばれた際に「獄門にかけられた場所」であると伝えられています。
将門公没後、当時「市聖」とあがめられていた空也上人が将門の霊を憐れみ、その供養を行った際に祀ったのがここ、京都における神田明神の始まりと伝えられています。
ちなみに、このお社が所在する路地には現在名前がありませんが、しばらく前までは「膏薬の辻(こうやくのつじ)」と呼ばれていました。この名は「空也供養の厨子(こうやくようのずし)」がなまって「こうやくのつじ」となったという説が残されています。 ※空也和尚はくうや、こうや両方の呼ばれ方があるそうですね!
昨年までは個人が維持・管理している一般民家の軒先の壁に埋め込まれるようにしてお社が残されていました。
もっときちんとお祀りできるようにと、窮屈に閉じ込められていたお厨子を取り出し、すっかり清められた屋内に遷座することになったのです。
お厨子の下方の壁に塗りこめられていた石も、取り出されてお厨子の隣に安置されています。この石は空也上人が将門公を供養した際に目印としてたてた三尺の瓜型の石とされているものです。壁から顔を出していた箇所が一部欠けてしまっています。残念。鴨川のマグロ石という種類の石らしい…
くしくも、今年は将門公が神田明神に合祀されて満700年にあたる節目の年。
神田明神発祥の地とされる京都のこの場所が新しい形でお祀りされるのに絶好の年とも言えるかもしれません。
将門公没後1071年。この先幾歳過ぎようと、偉大なる先人の歴史は語り継がれていくのでしょう。その静かなる一手が京都の路地裏にてひっそりと進められていたのでした。
神田の家に住んでいた遠藤達藏は大手町の将門塚保存会の前会長で、神田神社の氏子責任総代も務めていた人物なのです。そこいらへんの説明は、神田の家HPに掲載してゆきたいと考えております~
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